ある時は影の世界に生きる忍者、そしてある時はテレビのコメンテーター、はたまたある時は、ファッションモデルや舞台などなど、人々の前に姿を現すこの男。
Ω はいはい。この"Ω"マークに続く文章は私からの注釈コメントです。DVD本にも同様に注釈ありますが、ここでは新たに。
ヘヴィウェイトと書いて重量級と読み
ヘヴィメタルと書いて重金属と読む。
重金属打楽器奏者 スティーヴ・エトウ
多方面で火花をまき散らす彼のまわりでは、グラインダーがうなり、筒が叫び、犬が息を荒げる。ハアハア。
なぜこんな人になってしまったのか、スティーヴ エトウの知られざる人生を幼少期の思い出や音楽との出会いを中心にひもとき、その魅力(謎?)に迫っていきたいと思います。
スティーヴはヒトラーと同じ誕生日1958年4月20日日曜日、米国ロサンジェルスはかの有名なHOLLYWOODの巨大な文字のふもとで、その不吉な日をモノともせずに元気に生を受けたのでした。父は箏曲家衛藤公雄。アメリカでの父の舞台や音楽活動を幼いながらも見ていたスティーヴは、この時すでに舞台の魅力に取り憑かれていたのかも知れません。
エトウ一家はその後ニューヨークへと移り住みスティーヴは6歳までの人生の基礎工事をこの街で行いました。ちなみに住まいはかの有名なダコタハウスの数件隣り。自ずとジョンおじちゃんとかヨーコおばちゃんとか言って可愛がられていた、かどうかは知る由もありませぬ。(というか、まだジョンはリバプールじゃないの、その頃)
NY時代のスティーヴの記憶は確かではありませんが、(誰だって6歳までの記憶を鮮明に憶えてなんかいません。)よく遊びに行ったのが自然史博物館American Museum of Natural History と以前セントラルパークの一角にあった鯨が大きく口を開けたミニ遊園地(ピノキオをテーマにしたもの、現在は閉園)。自然史博物館の恐竜の化石が友だちで、鯨の口の中がホームグランド、というかなりエキセントリックな幼少期を送りました。そのころ鯨の口の中で嗅いだゴム張り水槽のゴムの匂いがいまだに忘れられないとスティーヴは語っています。実際27歳の頃、自分のルーツ探しのために単身NYを訪れた時には、古い記憶をたどって、ついにこのミニ遊園地の中の水族園を探し当て、実に20年ぶりにゴムの匂いに「再会」。説明しようのない望郷感にさいなまれたのでした。(この時、自分の見ていた風景がスローモーションで流れた。とはスティーヴ弁。しかしゴムなんて)
Ω それまでの27年間では最も感動の出来事でしたわ。
初来日は1964年東京オリンピックの年。ヒコーキ雲で五輪マークが空に描き出されていたのを良く憶えています。小学校時代は担任の先生と円谷英二(ウルトラマン生みの親)に育ててもらいました。ガメラ映画も全部見ています。(Steve's Best は2 作目「ガメラ対バルゴン」要チェックです)そしてもちろん、オリジナル「赤影」も見ていました。「ダイジョーブ」
Ω そうそう。怪獣映画って、当たり前なんだけど子供騙しなわけですよ。なんだけど、この一本だけは結構残酷な場面もあったりして、ちゃんと観られるんすわ。近年復活した新ガメラ・シリーズも頑張ってますけど...ちなみにゴジラは一作目以外はダメっす。
中学校時代は風紀委員長として学校の風紀を取り仕切る実直まじめな思春期を送った3年間でした。(想像できませんね)
音楽には幼い頃から親しんではいたものの、スティーヴが楽器を実際に手にしたのは高校1年の頃、丁度国内では、第1次フォークブームが盛り上がっていたころです。サンタナを聴きパーカッションって楽器があるらしい=練習しなくてよさそう、と事はトントン拍子で進み、渋谷の河合楽器にて1万4千円にて初のMY楽器ボンゴを購入したのでした。
Ω ちなみにパーカッションっつうのは楽器じゃないっすわな。"打楽器"の英訳ですわな。
高校生(早稲田実業)の頃にはブラスバンド部をちょっと手伝いつつ生徒会の副会長に立候補するも書記をつとめ、その他諸々の物事ひっくるめて無難に過ごし、来るべく早稲田大学でのキャンパスライフめざし精進の日々を過ごしました。(早実〜大学は推薦入学だったので、面接のみで大学に入学できたのでした。「そこが狙いだったのです。」とはスティーヴ弁)
Ω 副会長候補が一人余り書記は足りなかっただけなので、全員信任投票で当選つういい加減な選挙。ちなみに商業科には あのT.K.がいました。長髪禁止でしたので学園祭ではワンレンのカツラかぶってオルガン揺らしてました。E.L.P.とかやってました。
そして早稲田大学に入学。すぐにWFS早稲田大学フォークソングクラブに入部。バンド漬けの生活が始まりました。ちなみにWFS出身アーティストとしては、イルカ、ザ・リガニーズ(グループサウンズ)などが先輩で、同年代にサンプラザ中野、やや後輩にデーモン小暮閣下はじめ聖飢魔IIの面々等々が所属していました。前にカタカナ後ろに名字というこの芸名スタイルは、当時早稲田の流行だったようです。ホッピー神山もサークルは違いましたが、やはり同世代です。また、この方達の他にもWFS出身のプロミュージシャンは何十人もいるそうです。一度どなたか調べてみてください。ところでサークル名といいみなさんの名前といい、プロレス団体の様です。
Ω 残念ながらWFS出身のプロは上記の人々くらいっきゃいないっす。聞き違いっす。ちなみにサークルに誘ってくれたヤツは今もディレクター業やってまして、『今のお前があるのは、あの時オレが誘ったからだ』と恩を売るのですが、確かにあってます。
さて、当時のスティーヴはサークル内唯一のパーカッショニストとして、学園祭ともなればほとんどのバンドを手伝っていたほどの人気者?そう、今でも色々なところで名前やお顔を発見するし、いったいいくつのバンドに入っているのやらノという感じではありますが。どんなグループでも存在感を放つスティーヴのあの雰囲気はこの頃形作られたのではないでしょうか。
さすらいのパーカッショニスト、スティーヴ エトウのトレードマークは背中に背負ったコンガ。(最近はラジカセ背負ってますね。)しかし、さすがに毎日背負うのもつらく(二宮尊徳か?)、初のマイカー、ダイハツハイゼットを38万円也で購入。この車の元取るくらいは音楽やろう!というのがプロになったきっかけでしたノ(聞かなきゃ良かったです)
渋谷Egg-Manによく出演していたところ、仲良くなったエンジニアの紹介で西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」ツアーでプロの道へ。
そして、Kyon2こと小泉今日子のデビューツアー(石坂浩二演出)に参加し、以降3年ほどツアーメンバーに。後に「早口なイヌ」の名付け親ともなる年下の母Kyon2との出会いでした。
一方、バンド活動の方では当時のバンド小僧達がみんな目標にした、ヤマハのコンテストEastWest81に出場し、スティーヴの為に急遽ベストパーカッショニスト賞が作られるほどの活躍を見せました。そしてファンキー末吉に誘われ、この大会でグランプリを受賞した爆風銃(バップガン)に加入。世界歌謡祭にも出場したのです。同じく三重県合歓の里で行われたライトミュージックコンテストのジュニア部門にはチェッカーズも出場しグランプリ受賞。運命の歯車が少しずつ回り始めました。
Ω この時の記録がYAMAHAのサイトにあります。名ドラマー河村カースケ氏等の名前も発見できます。
渋谷「屋根裏」(ライブハウス、今は渋谷のほか下北沢にもあります。)と「爆風銃」での活躍、連日連夜の酒池肉林派手な人生の始まりです。 そして、Kyon2のツアーを離れた2〜3年後、伝説のバンドPINK誕生のきっかけになるセッションが行われることになるのです。当時、新宿ツバキハウスといえば知る人ぞ知る80年代のバンドシーンには欠かせないライブハウス。そこに、出入りしていた福岡ユタカ(Vo.)、Hoppy神山(Key)らが「新宿に新しいスタジオができるからセッションしようぜ」、というノリで「おPINK兄弟」なるセッションバンドを結成しました。これがPINKの前身となります。メンバーは前述の2人にスティーヴ(per) 、鈴木賢二(G)、沖山ゆうじ(B)、友田慎吾(Dr)。
Ω 新しく録音スタジオが作られると、様々な設備の点検も兼ねてデモ録音するんですわな。それに便乗して音を録っちゃったんです。
メンバーはその後、岡野ハジメ(B)、矢壁アツノブ(Dr)がトラ(代役)でPINKに参加したところを「彼らの方がいいや」とお気楽にスカウト。そして鈴木賢二が渡英(後にケンジ・ジャマー@ Simply Red)渋谷ヒデヒロ、大谷レイブン、逆井オサムが順にGになります。(渋谷氏、逆井氏は残念ながら永眠されています。)
イギリスでのデビューも果たし、あちらのメディアではSTINGと比較され、高い評価を得ていました。また、「Keep Your View」のPVは中野裕之監督がメガホンをとった作品でした。
スティーヴは解散のちょっと前、一足先にPINKを脱退したのですが、理由は「何せ、バンド以外の音楽活動を制限されてたんで、経済的に成り立たなくなっちゃったのよ」と「らしい」コメントです。
ちなみに、所属事務所はナベプロ(現ワタナベエンターテインメント)だったのです。(当時アロハプロダクションズがあれば良かったんですけれどね)
PINK時代を振り返ってスティーヴ曰く「音楽のBitが8から64位まであがった」とのことです。当時あんな音楽やっている人達は他にいませんでした。最近、PINK THE BEST というCDが発売されましたので、ぜひ聴いてみてください[AMCM-10010 east west japan]。ほぼ同期のバンドとしては、レベッカ、BOOWY、バービーボーイズ、米米クラブなどがいて、その後音楽界はバンドブームに突入します。
Ω 確か一番売れた盤で4〜5万枚だったと記憶。それまでのロックバンドの売り上げとしては立派な数字だと思うのだけど、なんせBOOWYとかがミリオン出してましたから、桁違い...
ツアー生活の始まり
さて、PINK脱退後、現在につながるスティーヴのOn The Road 生活が始まります。
まずは、年下の母Kyon2のツアーに復帰。バックバンドである「怪獣大図鑑バンド」のバンマスとして2年間で3本のツアーにでました。バンドメンバーはジーノ(Dr.)、チロリン(B)、ベー(G)、マッシー(Key)等。2年目からはバンマスに加え、全体の構成・演出から舞台セットまでをKyon2と共に手がけたのでした。Kyon2はこの時点ですでに普通のアイドルの枠を越えていたわけですね。ナットク。そして、これが後のスティーヴ初ソロアルバム全曲のタイトルをKyon2が名付けるということに結びついていくわけです。さて、この頃スティーヴは30歳の大台(中台くらいかな?)にのりました。
当時参加したツアーは、布袋寅泰GUITARHYTHM LIVE、COMPLEX TOUR 1989、吉川晃司ソロ などなど。
ちょうどその頃、自身も参加した藤井尚之ツアーのバンマスだった土屋昌巳(一風堂)の勧めでチェッカーズのライブを見に行き、そのショーアップされたステージに感動。チェッカーズはKISSと並ぶスティーヴにとっての2大アイドルとなりました。
Ω 友人達が全国大会@合歓の郷に勝ち進んでいたので応援に行きまして、チェッカーズを目撃。『ほお、かわいいDoWopバンドぢゃん』と記憶。しばらく経って『あのバンド、デビューしたらしいぜ』と聞き、TVで発見。モノトーンのスーツだったのが一転してモノスゴイ格好を着せられて歌い踊るのを観て『芸能界って恐い』と感じたのだった。なので実際にライヴを観るまでなんの興味も無かったです@正直。
ところで、スティーヴのKISS好きといえば(変な意味じゃなく)、「KISS LIVE VIDEO メSECOND COMINGモ」広島公演、最前列でもうフツーにファンしてる姿を確認することができます。(要チェックです)
話を戻して、年下の兄、藤井フミヤのツアーには94年の1st ツアーから参加し、現在までずーっと火花を飛ばし続けて、今では不動の(裏)バンマスの地位を築いています。
また、近年は及川ミッチーのツアーにも参加。ベイビーな仕事も楽しんでいる模様。
さてさて、坊主に袈裟というくらい、最近のスティーヴはといえば火花な訳ですが、PINKのころにはまだ飛んでいませんでしたし、叩いていたのも普通の打楽器でした。スティーヴが初めて火花を飛ばしたのは、吉川晃司のツアー。『ちょうどそのころ、電気ドラム等で「ガシッ」「ドシッ」的音を鳴らしていたのですが、ゴムを貼った板みたいなモノを叩いて派手な音がしても説得力無いように感じて来て、ならばドラム缶のように「ガシッ」と鳴りそうなモノを叩いた方が絵的にもイイだろう。』(本人談)ということで重金属な人生が始まったわけです。
また、意外な活動では三波春夫のコンサートもお手伝いしていました。ハウス三波春夫(ハウスミュージックの「ハウス」です、念のため)という企画に連動したツアーで、こどもの頃からのアイドル三波春夫との共演を果たしました。三波さんとの思い出は、リハが終わった後に「ご苦労さん」と言われたこと(普通は「お疲れさま〜」なのですが)や、銀座祭りというイベントで山車に乗り演奏をしていたところ、なんと火災が発生。スティーヴがややビビリ演奏を止めたところ、頭上から「スティーヴさん、続けなさい」の声が!「お客様は神様です」の極意を見た出来事でした。2002年新潟県三島郡越路町にできた三波さんの銅像にはスティーヴの名前も彫られています。
一方、バンド活動の方は、学生時代のノリがそのまま続いたのか同時にかなりの数のバンドに所属してきました。
まずはデミセミクエーバー。
スティーヴとエミ・エレオノーラの出会いはとあるユニットのデモ・テープ作りでした。自分のバンドを作りた〜い!というエミさんがテラシィイ、キース、スティーヴ達をナンパして作り上げたのがデミセミでした。当初はドラムレスでしたが、中さんが加入したとたんに活動が盛んになりました。アルバムやらライブやらもう手に入らなかったり、わからなくなっていたりすることなども多いのですが、何はともあれニューアルバムDog Bless You好評発売中なのです。(こんなに簡単で良いのかぁ!)という声も聞こえつつ、PUGSです。
Ω Emiちゃんも年下のアニキです。その際にはΩは妹分です。
PUGSはスティーヴとホッピー神山、岡野ハジメ(3人合わせてPINKのLOVE隊というそうです。)吉田光(G)古田たかし(しーたか)(Dr.)、ハニー☆K(Vo.)、キース横山(B)の6人で始めたバンドでした。アメリカのレーベルと契約し、全米ツアーを行ったり(97年)、ローラパルーザ(ロックフェスの全米キャラバン)に参加(しかしスティーヴ不参加)するなど精力的に活動していたのですが、メンバーの中の飽きっぽい3人(LOVE隊)は抜けてしまいました。スティーヴはもちろん(!)飽きっぽい方に入っているので、PUGSもここまで。(本当に、こんなに簡単で良いの〜?)
さて、もうかなりご立派なミュージシャンとしてのキャリアを積み重ねたスティーヴですが、さらなる転機が訪れます。現在の所属事務所であるアロハプロダクションズに入ったこと、ACIDという音楽ソフトとの出会い、98年アロハフェスティバルでのSOLOステージなどをきっかけに、同年アルバム「スティーヴ エトウ」(HGCB-1002)をひっさげて、とうとうSOLOデビューを果たしてしまいました。スティーヴ曰く「パソコンのレベルが上がって映像が作れるようになったりして、自分のやれることとツールがちょうど合ったんですよ。」
そして、このアルバムの曲名は前述の通りすべてKyon2が命名。
この頃から、ライブ活動の方もサポート中心だったこれまでのキャリアとはうってかわって、ビデオは作るは、会場でそのビデオを流してさらに自分の演奏重ねるは、MCも先に録って司会入れるは、客に筒かぶせて「おまえだけのために歌うぜい」ってロック野郎の振りするは、犬は出るは、手足星人はでるは、金剛くんだは、門前仲町だは、西のローリーアンダーソンか東のスティーヴエトウかと言うほどの活動を始めるのです。
Ω なんのこっちゃかサッパリわからんっすよねえ...??
まずは、札幌コンカリーニョで藤井フミヤ氏のツアーメンバーによる初の小判鮫ライブ(藤井氏をのぞくツアーメンバーがツアー先のクラブなどで突如行うゲリラライブ、その様があたかも小判鮫のようなのでそう名付けられた[広辞苑])を封切りに、「スティーヴちゃん祭り」と言う名のソロイベントを福岡、大阪、東京、沖縄、さらに札幌で開催。「天川大弁財天社 秋季大祭」での奉納ライブに弟レナード氏と出演。能舞台にて生音で演奏しそれこそ「神懸かり」的なパフォーマンスを見せました。この舞台はライブ録音され 「ALIVE! in 天川」として発売されています。
Ω 本来ならば屋外のステージで演奏するはずだったのですが、雨に弱い和太鼓の為に急遽能舞台へ移動。神殿の中の響きも素晴らしく結果大儲け。これ以降、兄弟でのソリが合って来ましたねえ。名演相次いでます。
また、2001年9月には画家のキーダ及川と写真家のトシ・オオタとともに品川の廃墟を使って2日間のパフォーマンスを行った「ステ展」では、直前のネットのみの告知だけで、400人ものお客さんがやってきました。2002年1月からはスティーヴの地元二子玉川(東京世田谷)のClub Pink Noise で「月刊S☆TV」と題したイベントを6ヶ月間月イチで開催。同じ1月にはティアラこうとうで初のワンマンリサイタル、さらに11月には神楽坂Twin Starで4時間にも及ぶワンマンショー「4時間TV」をぶちかましちゃいました。
音楽以外でもその活動はとどまるところを知らず、98年GENERAL RESEARCHのファッションショーに12体のSteve人形を従えて出演。人形は全身を型どりして作ったという凝りよう。舞台「セツアンの善人」や映画では中野裕之監督の「RED SHADOW -赤影-」に出演。インターネットラジオ「スティーヴエトウの金属ラヂオ」やら、コンピュータグラフィックのお仕事で教育テレビにも進出するやら。スティーヴさんの活動を追っかけているとかなりの物知りになっちゃいそうです。ま、物知りと言っても必ずしも世のためになるとは限りませんが。
さて、ここに今までの活動の集大成であり、また今後の活躍をさらに期待させる、初のDVD作品がリリースされるわけです。もう、堅気(?)のパーカッショニストではいられないスティーヴの今後に何が待ち受けているのか。このDVDで確認しましょう。乞うご期待!
Ω リリースされました。っつうか、手売りですけど...あはは。でもおかげさまで赤字にもならず、調子に乗って連作するでしょう。
この半世紀を執筆くださったのは東京都江東区/ てぃあらこうとうの森さんです。10年くらい経ったら続きをお願いいたします。